桜が咲いてから皐月の花に変わる一月ほどの間の温度計の話
A tales of Thermometer, Thermistor and Cube root.

2025 年 4 月 28 日

細田 隆之

English English edition is here.

東京は芝で開催された、あるディジタル信号処理研究会での近況報告で、私はおずおずと話し始めた。

「惚気のような話かも知れなくて恐縮ですが、私の妻はローストビーフが好きで…」
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私の妻はローストビーフが好きで―

イギリス料理に美味しいものはほとんど無いけど、ローストビーフだけは評価する!」
なんて言っている。でも自分で作るときには、生焼けが気になって大抵焼きすぎてしまう。
「そこは、古き良きヒューレット・パッカードのモットー 『推察するな!測定しろ!』 だよ」
妻には、きょとんとされたが、会場のエンジニアたちにはウケた。
「…と、いうことで、調理用の温度計買っとくねー!」
と、半ば返事も待たずに Buy Now ! した。

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そして、A****n で安く売られていた調理用の温度計が届いた。 試してみるとプローブの先では上手く温度が測れずに 30 mm ほど入れないとダメみたいだし応答がとても鈍い。 分解してみると、プローブのステンレス・シース内のセンサーの配線が短く、プローブ先端に届いても触れてもいないみたいだ。 足りない長さが、ちょうどシース・キャップの長さの 20 mm 程なので、きっと製造指示書の間違いだったのに違いない。

「これが安さの秘密だったみたいです」

そそくさと、センサーの配線を継ぎ足して組み立て直し、改めて温度を測ってみると思いの外正確っぽい。 氷水と、沸騰する精製水では、正確に 0.0 ℃ 及び 100.0 ℃ を示し、校正済みの K 熱電対との比較でも互いに 20.0 ℃ であったりと正確だった。 改めて調べてみると 300 ℃ 対応の DO-35 型のガラス封入サーミスタが使われてた。

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「チップ型のはよく使ってますが、DO-35…1N4148 みたいなアキシャル・リードのは、見過ごしてて使ったことがありませんでした」
高温向きの 100 kΩ のガラス封止 NTC サーミスタで Semitec のが秋葉原の部品やさんででも買えるのが分かって、 私が以前考案して普段使用してるチップ・サーミスタの近似式を適用しようとしたら、 普段の適応範囲が -40〜125 ℃ を超えたところでは、近似がフィットせず、 300 ℃ までいけない。 近似式を、10 年ぶりくらいに改めて見直していたら間違いを発見。
(sqrt と cbrt を間違えたまま、10 年以上ずっと使っていたのか…)
いけない子ね…と sqrt を cbrt に修正したら、元と同じく 3 係数で -50〜300 ℃ のサーミスタの特性を良く近似するのが分かった。 次いで、最適な係数を見つける遺伝的アルゴリズム風のプログラムを修正したら、 例えば -50〜300 ℃ で代表値に対して誤差 ±0.07 ℃ に入る係数の組をみつけた。 Steinhart-Hart 近似より良いかも知れない。 もしかするとサーミスタの物性の何かと関連があると良いななんて喜びつつ、修正について同僚に伝えた。

組み込み用に sqrt はあっても cbrt は無いっすよ!」
と言われた。確かに組み込み用 MCU のライブラリに sqrt はあっても cbrt も pow もない。

cbrt は 1/3 乗なので、それの近似関数を sqrt で作って √√x√√xx (= x11/32 ) としたら、レンジリダクション無しで、1e±40 の範囲で誤差 -0.7〜1.6 倍程度の近似ができるのが分かった。 それに対して、解の近傍での (1, 1) Padé 近似を漸化式に適用したら 3, 4回の繰り返しで double のほぼ限界まで収束するのが分かった。 出来た cbrt の関数はそのままで複素数対応だった。 複素数対応には近似の展開点だけでなく特異点で漸近的に等しくなるように近似すると上手くいくことが多い。 でも、double の範囲で使うにはちょっと無駄な気がする

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寝ている時に思いついた、ピュイズー級数的かつ制限付きのチェビシェフ近似的な実数版の cbrt 用の初期近似を、目が覚めてから試したらx ∈ [0.125, 8] の範囲で 3 項で 1.83 桁、4 項で 2.31 桁の精度が得られるのが分かった。 これに先の (1,1) Pade − 意味的には Hally 法と同じ −の漸化式 2 回で double の精度になるはず。

他に何かヒントはあるかなと Gnu C library (version 2.41) の cbrt のソース・コードを見てみたら、予想に反してなんだか詰めが甘い気がする。 1,000,000 個のランダムな倍精度の値で評価してみると、IEEE/dbl-64 版だと誤差が +9/-7 ulp と随分精度が悪い。 速度重視で精度はあまり気にしてないのか? gcc の native 版でも +3/-2.5 ulp で改善の余地がありそう。

一方、私の 4 項の初期近似のコードで試したら倍精度でも拡張倍精度でも ±2 ulp の精度で数値計算の限界に到達出来てた。 コードもシンプルで移植性も高い

「これで組み込めるよね!」
と、めでたしめでたし
「ところで先程は修正って一言で済ませましたが、5桁ほどのダイナミックレンジの非線形で誤差を含む限られたサンプル点から滑らかな近似曲線を推定するのは…」
って話しかけたら巻きが入った。
「それで美味しいローストビーフは食べられたんですか?」
「あ、それは
『美味しいローストビーフのためには、温度計じゃなくて美味しいお肉を買うのが正しいのよ!』
って言われました!次は遺伝子工学とかですかね?」
会場のみんなには
「それ違うー!」
「可愛い奥さんに美味しいお肉買ってあげてー!」
って言われつつ近況報告を装った惚気を終えました。

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テクニカルノート


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