一生ものの砥石
玉子色の砥石

今までにこつこつ貯めたへそくり全額と財布の中のお札を全部突っ込んで合わせ砥石を一つ買ってしまった。 その砥石がさっき家に届いた。[Feb. 15, 2006]


§ 巡り合い

先日、某所で見掛けたこの (たまごいろ) 玉子色の砥石の風合いが、 子どもの頃の記憶に残る祖父が使っていた合砥にそっくりで、 またその時までの30年以上に渡って決して見掛ける事のなかったものであった。 それを見た時に、子どものころ他の砥石は自由に使わせてもらっていたが、 それだけは勝手に使う事の許されなかった、 あの仕上げ砥への憧憬に似た感情が湧き起こった。 その砥石は厚みは少ないもののゆったりとした大きさで筋一つ無く、 私の見立てだとその質はほとんど 博覧会クラスである。 一晩の苦悩の末、購入を決意した。 もしも、当たりならば親子二代、あわよくば孫の代まで使えるであろう。 (L205 w78 h23 [mm])

裏面 譲って頂いた方の話によると会津の大工さんが 戦前にかなりの高額で入手されたものらしい。 戦禍を乗り越え能く半世紀以上の永きに渡って大切に使われて来たものだと感心する。 届いた実物をみるとコバに「加ト」と墨書きがある。 もしかすると現在ではマルカと呼ばれる 加藤砿山の 採掘元書きかも知れない。砥面や皮肌を見た感じでは中山かその辺りのものっぽい。 側面を良く見ると層にはなっているが大変緻密で滑らかである。 しばし眺めたのち暫時適温の浄水器の水に浸し砥石の目を確かめた後、 小刀で試し研ぎをしてみた。

なんじゃー、これは?

ほとんど始めての感覚でいかんとも形容しがたい。硬いだけじゃない。 水の層がクッションになってはいるが 小刀の表面にミクロの鉋をかけてるような感覚というか、 吸い込まれるような冷たさというか、これは「研磨」ではない。 何か違う。

砥面にはまだ十数μm程度のうねりが感じられるが、 とりあえず10数回ストロークした後、試しに髪の毛を一本抜いて切ってみた。 今まで使っていた合砥でも髪の毛をキューティクルにあわせて ゴボウのようにささがきにしたり三枚に下ろすことのできる刃付けまではどうにか出来るが、 これでは引かずとも髪の毛を真横に切る事が出来る。 キューティクルなど関係無し。 こないだまで使っていた正本山がまるで中砥だったかのように思われる。 これで完全に面出しが終わったらいったいどうなるのだ? ローティーンの男の子の妄想に似た気持ちが沸き起こる。

腕の立つ大工が大金をはたいてでも良い砥石を求めたその気持ちがわかった。
単なる快楽でも悦楽でもない。エクスタシー。

明くる日、この素晴らしい砥石が天寿を全う出来るようにと丹念に埃を拭い、 漆のかわりのカシューで 5 面を養生した。

カシューが乾いた数日の後、#6,000 の人造砥石 2 つの 4 面を摺合わせながら、 この合砥の平面出しをした。この合砥は弾くとキンキンと大変硬く、 人造砥石と摺り合わせても人造砥石ばかりがすり減ってなかなか平面になってくれない。 無駄にすり減らさないように気をつけながら半日程かけてやっと平面を出すことが出来た。 然る後に三河細名倉で面を整え試し研ぎを始めた。そして未知との遭遇があった。

表面 研ぎだしてしばらくすると、目前にあるのは平面な合砥なのであるが、 遠浅の海の底を眺めているような、渓流の淵を眺めているような、 吸い込まれるような気持ちになってくる。

そのうち、今のこの砥石には陸と海と浜と淵があることが判った。
陸というのは上側の層で、海というのはごく僅かだがそのひとつ下の層で、 その間の過渡域が浜のように感じられる。陸の部分は海の部分に比べ 僅かにおりが良く、海の部分は僅かにより滑らかで、 浜の部分は海から陸にかけてはまるで鉋のように切れが良い。 淵の部分には研ぎ汁の中の鉄分が凝縮していくようだ。

刃を付ける時には陸の部分で刃を作って行くのだが、当て方が悪いと地鉄の 中からでた硬い微粒子が鋼と砥石の間にころころとはさまって 鋼によけいな傷をつけてしまう。脳天の裏に囁き聞こえるような 音にならない音を聞きながら指先の砥面と切刃の鋼に意識を集中して 研いでいると、いつしか瞑想のごとく目をつむって研いでいたのに気が付いた。 心眼が開くというのはこういうことなんだろうか。
陸の部分で十分に研がれて切刃の鋼の形が整ったころ、 自ずと刃は海に向かいその表を平に整え始める。 ふと我に返ったように刃裏をそっと乗せて、刃が陸風の如く動いた刹那 2次元が交差して1次元の空間が現れた。

あ、これが『合わさる』ということか。
だから、「合わせ砥石」なんだ。天と地が合わさるが如き無限の中のゼロ。
エクスタシーだなんて言ってたのは一歩手前のことだったんだ。これは、「悟り」に限りなく近いのではないのか。
でも、まだ己も技も刃物もこの合砥に全然追い付いていない。もっと、もっと精進しなければ。


数日経って色々と試してみている。細名倉もそのままかけると、引っつれた感じに微妙に砥面が荒れるみたいだ。 湿らせた細名倉の表面に #30,000 のグリーンカーボランダムを 目止めの様に僅かに擦り込むようにしてからかけた方が 研ぎ易く研ぎ上りも滑らかで調子が良い。

バイオリンの練習のごときゆっくりとした一定速での研ぎを試している間には、 綺麗に洗われたワイングラスを指でこするとスティックスリップ 現象で鳴るような「キーン」という音(ダブルハイGくらい?) が発生したこともある。
「さすがに硬い石、Qが高いっていうか、っていうか主成分は水晶だもんなぁ。 鳴り砂も石英だし…それは関係無いか。やっぱ厚み滑べりモードで鳴ったのか?」
などとエンジニアっぽく仕事がらみな方向に連想が走る。

ここから先は妄想混じり夢現。 研ぎ上がってくると「合わさる」なんて言ってたのは またまた一歩手前のことだったと思い知る。 合わさってくると、ピンホールレンズと同じナイフエッジ回折が顕著になって、 刃を横から見るとエッジ際、向こうの景色が歪んでくる。 エッジがシャープになってくればくるほど 光学顕微鏡で倍率を上げて見ても、ぼやけてどこがエッジか判らなくなってくる。 光の波長とコンパラブルなオーダーということだ。 見ても判らないのだから感じるしかない。

精神を研ぎ澄まし砥石を撫でるように研いでいると、だんだんと さっきまで平面だと思っていた砥面が、大きなフラクタルなうねりを もっているように感じられて来て、しまいには連峰の山々のように感じられてくる。 気持ちが遠くにいる時には その山の頂の岩の頂点の砂粒が風化した埃のごとき微粒子に触れようと 黒雲の様な刃物がそっと覆いかぶさって行く感じ。 ところが精密に触れさせようと気持ちが近寄って山の頂に上ると、 黒雲は姿を消して霧雨になってしまう。

色即是空 空即是色

おぼろげなエッジ エッジというものは現実にあるに違いないんだけれど、 エッジが研ぎ澄まされて行くにしたがってどんどんと朧ろになって行く気がする。 量子力学だの存在確率だのという言葉も脳裏をよぎるが、 無意識に口をついて出た言葉はそれだった。 般若心経にはまるで縁が無いが、 この言葉は実体と存在の不確かさとひとつの事象の複数の写像を を表してるのではないんだろうか。 今まで実感としてはよく理解出来ないで頭の片隅に放置されていた言葉が 突如として口から出て来たのを聞いて驚いた。
こないだから切れ味を髪の毛を切って試しているが、今までは刃が髪の毛に かつんと当たって切り倒していたのが、本当にうまく研げたところでは、 髪の毛と刃が近付いて、境界が融け合って一つになった後、通り抜けて 3つに別れるような気がする。修行不足でまだこの切れ味はまぐれにしか出すことが出来ないが、 私の腕不足に加えて、試し研ぎに使っているこの安物小刀の鋼の中の粒々が 不揃いで緻密さに欠けるのが感じられこの鋼の限界に達している気もする。

GSXR1000 に初めて乗った時と同じで、一体どこに限界があるのか良く判らない、 でも、この砥石は私を成長させてくれる不思議な石ではあるようだ。 巡り合いに感謝し精進することにしよう。

それにしても、こんなものが自然に出来るだなんて神の御業、ほとんど奇跡としか思えない。
まだ零歳の我が息子にこの砥石を伝えようと思う。祖父から受け継いだ研ぎの技術とともに。


§ 後書き

人類最初の道具が石器で、現在の道具は大雑把に言えば水晶から出来ている。 道具が文明の源とすれば石が文明の源なんだろう。 そしてその石は宇宙の塵から、その塵は星の燃えカスから出来てる。 そう考えると、悠久の時間とものすごい偶然に感謝せざるを得ない。 宇宙の年齢が 137億年として、 運命が一巡りして地球が出来たのが、まだ神も仏もいない 46億年前。 この砥石にしたってほんの少し昔の 2.5億年前に仕込んでつい今しがた 出来たようなもの。 人類なんて文字を手に入れてからまだ数千年しか経っていない。地層にすれば数 mm分。 その人間が僅か半世紀で「アクティブ」な石を生み出し、 その恩恵で今こうして PC に向かって儚い「文字」を刻んでいる。 ほんに不思議なものだ。


§ もう一つの砥石

「加ト」の墨書のあるこの砥石を手に入れてから息子も一人増え、時が一廻りした十二年後の秋に、この砥石に肉薄する砥石を手に入れた。[Oct. 4 2018]
「加ト」の砥石を手に入れてから今までに「マルカ」を含め何本かの砥石を大枚を叩いて購入したが、「結構良いよね」を超えるレベルのものには出会えていなかった。 奥殿の巣板なども何本か買ってこれらは、鋼材を選ばず素早くそこそこの刃が付くので便利で使いやすいが、感動というものは無い。 ところが、である。先日、前の所有者が露天商から買ったという出処不明の「手挽きの中山戸前」を手に入れた。 面を整えて使ってみると何れ菖蒲か杜若、そっくりだけど個性が違う。 だがしかし、これもまた「加ト」の砥石に肉薄する瞑想の世界に誘うような砥石だった。 こんな砥石にまた巡り合うことが出来るなんて思ってもいなかった。 これもまた個性の違うもうひとりの息子に伝える分が増えたと言うことか。

左が「加ト」の墨書のある砥石、右が手挽きの中山戸前
愛用のカト 中山戸前


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